2009 年 のアーカイブ

  
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せっせっせーのよいよいよいっ

2009 年 8 月 14 日 金曜日

アンキさん*1の作品に、蓄音機の傍らで直立して歌っている『自画像』(多色木版 1932年)があります。
両手をお腹に、口を縦に大きく開けて朗々と・・・、といった様子ですが
さて、どんな歌をうたっているのでしょうか・・・。

絵葉書を額装してみました。オリジナルは展示中ですよ。

絵葉書を額装してみました。オリジナルは展示中ですよ。

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ところで
様々な書物からアンキさんの人となりを知るにつけ、思い出される歌があります。

お寺のおしょうさんが
かぼちゃの種を まきました
芽がでて ふくらんで
花が咲いたら
ジャンケンポンッ

という遊び歌です。
(二人一組で向かいあって、お互いの手を打ち鳴らしながら歌います。「芽がでて」以降は両手を祈るようにあわせ、種から花へと変化する振り付けがあり、最後にジャンケンの勝負!という遊びです。歌詞は地方によって時代によって、かぼちゃは花を咲かせた後、枯れたり実をつけたり転がったり・・・といういろんなバージョンもあるようですが、上の五行がだいたい基本となります)

アンキさんの生家はお寺と縁が深く、彼は仏教系の中学校へ通っていました。
また、手作りの掘っ立て小屋で暮らした最晩年には、飢えをしのごうとかぼちゃの種をまいて育てていました。
八坂喜代さん*2 のお話によると、アンキさんは毎日毎日かぼちゃ畑に座り小さく結んだ実をニコニコと嬉しそうに数えては、かぼちゃの実が熟れる9月を心待ちにしていたのだそうです。「これからは草ばかり食べずにすみます。もう大丈夫です。」 しかし、そのかぼちゃを口にすることなく、1946年9月9日、栄養失調のために衰弱死しました。(太宰治の「桜桃忌」のように、アンキさんの命日の9月9日は「かぼちゃ忌」と呼ばれたりもしているとか・・・)。

かぼちゃの花

かぼちゃの花

いま、小淵沢周辺の畑では、かぼちゃの黄色い花が咲いているのを見かけます。
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ちょうど実が熟れる頃、アンキさんの作品に囲まれながら、酒井俊さんがさまざまな歌をうたってくださいます(9/27 LIVE! 酒井俊)。こちらもお楽しみに!
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*1 アンキさんとは、谷中安規(たになかやすのり 1897-1946) のことです。勝手ながら親しみを込めて呼ばせていただいております。

*2 八坂(旧姓 佐瀬)喜 代さんは、アンキさんの最期を看取った方です。このときの様子は、先月発売された『谷中安規の事』( 八坂喜代・著 限定1,000部発行 たけしま出版 )に詳しく書かれています。八坂さんには、フィリア美術館のイベント『ギャラリートーク 谷中安規をめぐって』でも、たくさんの貴重なお話を聞かせていただきました。

呼んでる口笛 百舌の声

2009 年 8 月 11 日 火曜日

今日は久々にお日様がきらきらぎらぎら照りましたね。
昼下がり、来館者が途切れた合間にベランダに出てちょっと一息。
さわやかな夏空を見上げていたら、美術館のそばにそびえるモミの木のてっぺん近くでたわむれる小鳥の姿が目に入ってきました。

モミの木に鳥の姿が・・・

モミの木に鳥の姿が・・・

つがいのようですね

つがいのようですね

肉眼ではどんな鳥なのかよく見えませんし、飛び方で区別できるほど野鳥に詳しくありません。よくわからないながらもとにかくカメラで撮ってみました。パシャリパシャリ。

アップにしてみました

アップで見てみると・・・

拡大してみたら・・・ モズかな?
羽の色や、眉毛部分の白、目の下のラインの暗褐色などから判断しましたよ。
その瞬間、反射的に

目かくし鬼さん  手の鳴る方へ
澄ました  お耳に  かすかに沁みた
呼んでる口笛  百舌(もず)の声・・・
(作詞:サトウハチロー  作曲:中田喜直)

と、思わず口ずさんでいる自分を見つけました。
ようやく長雨から解放されて夏空気分を味わっていたのに『ちいさい秋 みつけた』???
少しさみしい気持ちになってしまいましたけど大丈夫、本格的な夏はこれからです!

麦圃行雲

2009 年 8 月 7 日 金曜日

今日の八ヶ岳南麓のお天気は曇り。ときどき雲の厚さが変わって、雨が降ったりふんわりした光を感じたりもします。
梅雨が長引いたせいか、野菜の収穫はなかなか例年通りにいかないようですね。周辺の農家の方から、よくお日様を待ち望む切実な声が聞かれます。明日には雲の上のお日様と逢えるかな?

アンキさんが亡くなったのは昭和21年年9月9日です。その年の気候は定かではありませんが、亡くなるまでの梅雨から夏、アンキさんは湿気にだいぶ苦しんだそうです。
戦後間もない焼けあとのバラックで、カボチャの実りを楽しみにしながらも餓死したアンキさん。このエピソードには痛切な苦みを感じますが、アンキさんの生き様は決して貧しいだけで語られるものではなかったようです。

遺作集『鬼才の画人 谷中安規』 (アポロン社 刊 1972 収録作品は、遺作版木から摺られた木版画5点、コロタイプ多色刷作品30点をふくむ130点)の巻末には、料治熊太によるアンキさんにまつわるエピソードが愛情深い文章でつづられています。
その文章のなかから少し抜粋して紹介します・・・。

『鬼才の画人 谷中安規』アポロン社 外函

外函 題字は棟方志功です

彼は心からの貧乏人ではなく、貧乏を楽しんでいる王者のごとき貧乏人だというように思われて来た。平凡人の私などとても真似のできないおおらかで奔放なところがあった。
たとえば、こんなことがあった。丸山停留所の目と鼻の先きに天神湯という銭湯があった。彼は、風呂は嫌いで滅多にはいらぬが、たまにそこへ出かけることも あった。ところが、少し懐中に銭のある時など手拭いをブラさげて家を出ることは出るが、空にフワフワ雲でも泛んでいるのを見ると、急に原っぱで、それが見 たくなる。円山町の停留所までやって来て、通りかかった円タクを呼びとめる。
「おい、どこでもいい、麦畑の見える広々とした原っぱへやってく れ」それを聞いて、たいていの運転手は、「冗談じァない。忙しいンだ」といって行きすぎる。風体のあやしい、見るからに精神異常者めいた男が、そんなこと をいえば、たいていキ印と思うにきまっている。ことわるのも無理はない。

『鬼才の画人 谷中安規』アポロン社 内函

内函 口絵には佐藤春夫が油絵で描いた谷中安規像があります

そこで、後になって、彼は新手を考え、一円札をヒラヒラ見せながら、呼 びとめることにした。銭を先にわたし、バタンとドアをしめ、乗りこんでから「板橋へんへやってくれ」というのである。そして所定の板橋へやってくると「何 番地ですか」と運転手が聞く時になって「どこでもいい。そこらへんの麦畑のところへ降ろしてくれ」というのであった。
彼はその話をした時「私もこれでナカナカ知恵者でしょう」と言って、ニコニコ笑っていた。
そんな時の彼は、利口なのか、バカなのか、見当のつかない不思議な男にみえた。
「麦圃行雲」とでもいうのか、郊外の風景をしばし楽しむ間、彼は自動車を待たせ、十分くらいそこを散歩し、煙草をふかし、もとの丸山町に引き返し、歌心を心に湧かせながら、天神湯へはいるのだった。

(料治熊太「鬼才の画人 谷中安規  〈谷中安規とその奇行〉」より)

『鬼才の画人 谷中安規』アポロン社 本体

本体 内田百閒による序文が寄せられています

読みながら、アンキさんが、フィリア美術館の前の原っぱを眺めに来てくれないかしら・・・などと、つい夢想してしまいます。
麦畑はないけれど、牧草や雑木の緑に囲まれたテラスのベンチにお招きして、アンキさんの好物のコーヒーをたっぷり煎れてさしあげたいです。
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料治熊太(1899-1982)岡山県に生まれる。『南京新唱』をとおして会津八一に傾倒する。博文館『太陽』の編集を経て、骨董及び版画研究を行う。『白と黒』「版芸術」などの同人版画雑誌を発行し、昭和前期における版画の隆盛に寄与した。

  
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